【指導で悩んでいるあなたへ】教える立場の人こそゆとりを!②

子供教育

以前のブログの内容について、奥さんと話をしたところ、意外な回答が返ってきました。

芸事には基礎がある。決まった型があるからこそ、その型をやぶれる。指導に愛があればいいんじゃない?

基本の型を知らないと、そもそもその発想が新しいかどうかすら判断できない。だから、もしその子の親が基礎を学ばせるために指導しているのであれば、それは悪いことではないとのこと。

また、子供がてっとり早く上手に見せられるようになりたいと考えているのならそれも問題ないと。

型があるから破れる。ダンスという芸事を幼少期からずっと続けている奥さんならではの発想だと思いました。

なるほど、このような考え方もできるのか。アートは奥が深いな

実際、子供の絵を描くようなピカソが、なぜあそこまで有名かというと、アートの常識を破ったからなのです。絵を描く際は模写が一般的な世の中に、「キュビスム」という人や自然の立体的な風景を全て複数の視点から見た幾何学的な形で捉え、平面にそのまま表す絵画様式を生み出しました。

我々がモノを見るときに、普段は一面しか見えていません。しかし、ピカソは複数の視点を同時に描くことで、物事の本質に迫ろうとしました。ピカソは模写をするための基本的な技術があり、その時代の常識を知っていたからこそ、そこに物足りなさを感じ、自身が本当に表現したい数々の作品を生み出すことができたと言えます。

少し話が脱線してしまいましたが、では、どのように指導者は自由な発想を育むことはできるのでしょうか。

枠を設けた上で、自由を与える

基礎となる技術を教えて、その技術を活用しながら、あとは自由にする。

絵の話に戻ると、例えばゴッホのような色の選び方、塗り方を教えて、それ以外は自由にしてもらう。技術に関しては適宜指導し、枠の中で正確に実施することを目指す。一方、絵の内容や表現方法については自由にして、逆にその自由を褒める。

一つの枠を設けて、それ以外は自由にすることで、技術や基礎を教えながらも個人の自由を尊重することができます。

これは後輩でも、部下でも同じことが言えると思います。自身が思う”正解”を押し付けるのではなく、基礎としてこのようなものがあると提示する。その上で、本人に会うやり方を選んだもらえばいいのです(もちろん仕事などではミスできないこともあり、そのバランスが難しいのですが、、)

「指導」ではない、「共有」であると認識する

こちらは手法というより考え方に近いかもしれませんが、「自分が教えてあげている」という考え方を持たない、ということが大切です。

人に教える立場の人間は、その分自分が偉いと誤解してしまいます。その状態で物事を教えると教える側と教わる側、両方にとっていい結果は生み出さないでしょう。

  • 教わる側:人間は感情に敏感なので、教わる側がその虚栄心や自慢気なところを感じ、素直に聞き入れることができない。
  • 教える側:言うことを聞いてもらえず、もしくは言ってもできないため、ストレスを感じ行き過ぎた指導につながりかねない。

立場が上であろうと、人間に上も下もなく、ただ役割が違うだけです。年上の人はそれほど経験がありますし、逆に若い人は体力があり、生物的にも進化していると言えます。子供に対しても、指導ではなく「共有」しているという認識を持てるかどうか、これが指導に置いては大切だと感じました。

子供に対してでも、部活の後輩でも、職場の部下でも、知人に対してでも、人に教える機会は多いと思います。人に何かを教えることは大変すばらしいことだと思います。

知識の共有はお互いの成長を促しますし、家族や組織にとって大切な行為です。指導で行き詰っている、難しさを感じている人は少しご参考にしてみてはいかがでしょうか。

では、また。ゆとりのある日々を。

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